触手隆盛について

 カトゆー家断絶さんで見つけたコラム(「エロアニメが生まれた理由」)からの話。いわゆる「触手」についての話。本文の主題は別ですが、ここではその中から触手表現についての部分で駄文を書きたいと思います。

18禁Animeといえば、悪魔が触手を繰り出して人間の女に襲いかかるという呈のものだというイメージが今では定着しています。こうした触手ものは実際にはそう多いわけではないのですが、これらは元々は法規制を免れるために編み出された表現手法です。

 海外ではエロアニメ=うろつき童子、淫獣学園の公式は根強いですからねえ。

ここ数年でやや緩められてきているとはいえ、日本では今なお性器や陰毛を露骨に描写することは道徳的にも法的にもご法度であり、それはAnimeやManga業界においても同様です。男性器を描くことは法的にも倫理的にもまずいので、日本のアニメーター達は代わりに触手というものを出すようになったと思われます。男根に似せながらも男根そのものではないということで、法の目をかいくぐることが可能になったのです。

 これは日本でもよく言われていますね。発祥の説明としては真実の一面を突いていると思います。しかし余談ですが、ソフ倫などではその製作側の拡大解釈を止めるため、「男性器に酷似しているものにはモザイクが必要となる」としています。そう判断された場合該当する全ての部分が男性器(と同質)と判断されるため、全個所モザイクをかけないといけなくなる可能性があったりします(笑)。諸刃の剣。
 さて、このページの訳者は上記の理論さらに註をつけ、「これは外れてはいないものの、訳者の見解は異なる」としています。

'80年代前半、触手によるAnime風美少女の陵辱という絵が法規制が及びにくい同人誌界でも好んで描かれていたことからも、男性器の直接的描写が法に触れるからという消極的理由というよりは、性的欲望はありながらも自らを陵辱主体として描く(あるいは感情移入する)ことにはためらってしまうというおたくの男の子の矛盾感情の産物ではないかと思われる(その矛盾感情を巧妙に物語性に昇華させてくれるものがいわゆる美少女エロゲー!)。

 画面に「女性を陵辱する男性」という自分の「鏡」を出さずにおくことで加害者=自分という繋がりを消すことができる、ということを狙えるということでしょうか。最後の括弧書きとして書かれている一言がそれを示しているような気がします。初期の物語性の高いエロゲーというのは、「エッチをしてもいい心理的お膳立てを物語がしてくれる」機能があったと言えると思います。それが本末転倒して、「エッチをさせてあげてもいいくらいに主人公の存在が大きくなる=女の子が自分に全幅の信頼を置くようになる(恋愛の)物語」とすり変えられ、それの効用を誰もが認めたことがエロゲー界の1パラダイムシフトであったろうと思います。

 はい、ここまでの話は以上です。ここからが私の「第三の原因」説。触手の技術的側面からの視点。
 実際エロアニメ、いやアニメに関わらずその他映像(画像)を媒介にした性表現が必ず引っ掛かる難問があります。それは「構図」です。男性器と女性器が人間の股間に付いている限り、常に問題となるのは「男性の体がジャマ」ということなのです。このあたりのことはエロビデオを数本も見てみれば分かることで、「(肝心なとこが)見える」体位、というのはそう多くないわけです。最近であれば、ポリゴンを使った優秀なエロゲーがありますから、そういったものを参考にするのもいいです。カメラワークを自分で設定した場合、なかなかいい位置(笑)がなくて苦労しませんでしたか? これが問題なのです。そこで色々な手法が考え出されました。一番メジャーなのは、場面によって(見せることを主眼に置いたシーンでは)男性を描写しないというテクニックです。昔のエルフがこれをよくやりましたねぇ。そのくせ股間は何の描写もなくツルンとしてやがっていやいやそんなことはどうでもいいです。もう一つ簡単に考えられるのは体位の工夫です。後背座位(いわゆる乱れ牡丹)などが誰言うともなく取り入れられてきたのは、そういった理由があるのではないかと。要するに要点は邪魔になる男性の体が消えてるか邪魔にならない位置にあればいい訳ですから、そうすると「絵」という融通の利くイマジネーションの世界では別の解決法を見出すことも可能になるわけで、それが「男性器を伸ばし男性本体から距離を取る=性器の触手化」だったと私は考えるわけです。
 発想法が実際にそういった流れだったかは確認する手段もありませんが、触手は実際、導入してみると顕著な効用がありました。それは緊縛表現にも利用でき、しかも自在に動かすことができるため女性を捕獲し拘束する説明をも担うことができます。複数本存在させかつお互いに十分なマージンが取れるので、無理なくかつ女性を独占しているという意識を維持したまま2P、3P同様の表現ができます。それにより画面も1対1の関係より派手にできます。そして、射精カタルシスも維持していますし、なにしろ男性器の「幹」の部分が伸びただけとも言える形状は男性器としてもイメージしやすく感情移入を損なうことがありません。おお、なんだか自分で書いてて嘘くさく感じるくらい至れり尽くせり!
 しかしそれにも増して重要な「効用」がもう一つあったのです。これは引用した文章で「法規制が及びにくい同人誌界でも好んで描かれていた」と言及された点についても符号します。それは「作画のしやすさ」です。触手を描いて代用とすることは、作家を「(裸の)男性を描く」という苦行から解放したのです。かつ、触手それ自体の作画コストも、男性を一人描くことに比べ極めて小さいと言えます。少し意地悪い言い方をすれば男性を描けなくてもエロマンガは描けるようになったのです。
 つまり触手隆盛は、女性(結合部)をよりよく見せる手段として、陵辱する男性に感情移入するという負担を減らす手段として、そして作画する人間のコストを圧倒的に減らす手法として、隆盛が約束されていた表現なのだと、私は思うのです。